余貴美子と范文雀は、台湾から日本に移住した客家人のルーツを持ついとこ同士です。
余貴美子さんは、NHKの『ファミリーヒストリー』で自身のルーツを再確認し、客家人としてのアイデンティティを強く意識するようになりました。
范文雀さんは、余貴美子さんが女優を目指すきっかけとなった存在です。
(映像:家政夫のミタゾノ THE STAGE お寺座の怪人)
余貴美子と范文雀:いとこ同士
余貴美子(よ きみこ 1956年5月12日生)さんと范文雀(はん ぶんじゃく 1948年4月15日 - 2002年11月5日)さんは、台湾人の父と日本人の母を持ついとこ同士です。
范文雀は、余貴美子より8歳年上で、彼女が女優を目指すきっかけとなった存在です。
范文雀の生涯と輝かしいキャリア
范文雀は、1968年に女優デビューし、1970年のドラマ『サインはV』でブレイクしました。
彼女は多くのテレビドラマや映画に出演し、その演技力とエキゾチックな風貌で人気を博しました。
幼少期と家族背景
范文雀(はん ぶんじゃく)は、1948年4月15日に東京都中野区で生まれました。彼女は台湾国籍を持ち、両親も日本育ちでしたが、中国語は話せませんでした。
幼少期から日本で育ち、その多文化的な背景が彼女の独特な魅力を形成しました。
女優デビューと初期の成功
1968年、范文雀はテレビドラマ『特別機動捜査隊』で女優デビューを果たしました。
彼女の演技力と美貌はすぐに注目を集め、1970年のドラマ『サインはV』で一躍有名になりました。
このドラマでは、エリザベス・サンダースホームで育てられた混血のアタッカー、ジュン・サンダース役を演じ、多くの視聴者の共感を呼びました。
結婚と一時引退
(画像:izk)
1973年、范文雀はドラマ『2丁目3番地』(日本テレビ系 1971年)で共演した俳優の寺尾聰(てらお あきら 1947年5月18日生)と結婚。
この結婚を機に一時芸能界を引退しましたが、翌年には離婚し、再び芸能界に復帰しました。
この期間は彼女にとって大きな転機となり、再び女優としてのキャリアを築く決意を固めました。
復帰後の活躍
復帰後、范文雀は多くのテレビドラマや映画に出演しました。
特に『Gメン’75』(TBS)や1977年公開映画『人間の証明』などでの演技は高く評価されました。
さらに、1993年から放送された海外ドラマ『ドクタークイン大草原の女医物語』(NHK)では、ジェーン・シーモアの吹き替えを担当し、広範な評価を得ています。
彼女の演技は深みと感情表現に富み、多くのファンを魅了しました。
晩年と病との闘い
(画像:NHK)
それでも彼女は最後まで女優としての誇りを持ち続け、2002年11月5日に心不全で亡くなりました。
晩年は舞台を中心に活躍、病床では出演が決まっていた舞台の台本を読み、けい古を楽しみにしていたといいます。
(范文雀さん)「舞台が楽しい。舞台女優として頑張りたい」と友人に話していました。
范文雀の生涯は、波乱万丈でありながらも、多くの人々に愛され続けた女優としての輝かしいキャリアを築きました。
彼女の演技は今もなお、多くの人々の心に残り続けています。
余貴美子:日本映画界の名女優、その輝かしいキャリアと功績
(画像:よみふぁみドットコム)
余貴美子さんは、1976年にオンシアター自由劇場に入団してから、その演技の旅をスタートさせました。
『おくりびと』や『ディア・ドクター』での成功は、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を3度受賞するなど、その実力を証明しています。
最近では、7年ぶりに舞台に復帰し、再びその才能を発揮しています。彼女の歩みを振り返り、その魅力に迫ります。
初期のキャリアと自由劇場・東京壱組時代
余貴美子さんは1956年5月12日に神奈川県横浜市で生まれました。
彼女の演技の旅は1976年にオンシアター自由劇場に入団したことから始まりました。
自由劇場時代には『上海バンスキング』のリリー役で注目を集め、その後のキャリアの基盤を築きます。
1985年には大谷亮介さんらと共に役者集団『東京壱組』を旗揚げし、1996年の解散まで14公演を行いました。
この期間中、彼女は多くの舞台作品でその才能を発揮し、観客を魅了しました。
映画『おくりびと』『ディア・ドクター』での成功と受賞歴
(画像:第81回米国アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと(英語題:Departures)』の授賞式後)
余貴美子さんは映画でもその才能を遺憾なく発揮。
特に『おくりびと』(2008年)や『ディア・ドクター』(2009年)などで高い評価を受け、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を3度受賞しています。
また、ブルーリボン賞や毎日映画コンクールなど、多くの賞を受賞し、その実力を証明しました。
最近の活動と舞台復帰
最近では、2022年に7年ぶりに舞台に復帰し、栗山民也さん演出の『hana-1970、コザが燃えた日-』に出演。
この作品での彼女の演技は再び高い評価を得て、彼女の変わらぬ実力を示しました。
7年ぶりの舞台出演で、余貴美子さんは「もう舞台には立たないかもしれないと思っていたが、演出家・栗山民也さんの沖縄への思いを知り、最後のお務めとして引き受けた」と語っている。
二人の家族背景と文化【台湾から日本に移住した客家人】
余貴美子と范文雀の家族は、台湾から日本に移住した客家人のルーツを持っています。
余貴美子は、NHKのドキュメンタリー番組『ファミリーヒストリー』で自身のルーツを再確認し、客家人としてのアイデンティティを強く意識するようになりました。
余貴美子の家族背景
余貴美子さんは1956年に神奈川県横浜市で生まれました。彼女の父親は客家系台湾人で、母親は日本人です。客家人の祖父は戦前に台湾から日本に移住し、神戸で紅茶や果物の輸出入業を始めました。戦後は金融や新聞事業なども手掛け、日本初の客家団体「客家公会」を立ち上げています。
范文雀の家族背景
范文雀さんは1948年に東京都中野区で生まれ、広島市で育ちました。彼女の両親も台湾出身の客家人で、父親は音楽家でしたが、范文雀さんが5歳の時に台湾に帰国。その後、范文雀さんは母親と兄と共に広島市の祖父母宅に身を寄せました。
客家人は中国大陸の広東省や台湾などに住む漢民族の一派で、独自の文化と伝統を持っています。
台湾から日本に移住した客家人は、特に戦後の日本社会で様々な分野で活躍しました。
彼らは日本各地に客家団体を設立し、文化交流やコミュニティの支援を行っています。
余貴美子と范文雀の影響
(C)日刊ゲンダイ
余貴美子さんは、従姉妹の范文雀さんから大きな影響を受けました。
范文雀さんは、エキゾチックな容姿と高い演技力で多くのファンを魅了した女優で、余さんが女優を志したきっかけでもあります。
范文雀さんのプロフェッショナルな姿勢や、演技に対する情熱は、余さんのキャリアにも大きく影響を与えました。
范さんは54歳で亡くなりましたが、その作品と遺産は今もなお語り継がれています。